昭和40年7月15日 夜の御理解
様々な生活の上にも、新しい、斬新なアイデアを皆さんが、考えておられますように、信心にもですね、ちょっとした思い付き、ちょっとした工夫、それが、私共の心をいつも、和やかにしたり、またそれが、神様へ、不思議なくらいに通うたり、ちょっとしたところの、とってもその、やっぱり、和賀心からも練りだして欲しいと、それが必要だと、思うんです。
今日、私、五体が何時ものように不自由でございましたから、ご飯も頂かずに、お風呂も頂かずに、とにかくあの、ご飯を頂くのがきついという(笑い)たら、おなかはすいてるが、ご飯を頂くのがきついというぐらいに、この身体がきついんですね。そんな訳でお風呂も入ってなかったんです。御祈念前にお風呂頂こうと思っても、みんな帰った後で、「えー」、まあ、いうなら風呂が汚れておる。入らしていただきましたら、長女が、「あー」、なんていうてたんですか「あー」、公衆風呂って、匂いのよい、あの、緑色の粉末を、(ちゅうじょうとう)ですかね、なんか、あげな物を風呂へ入れてくれておりました。なるほど、お風呂は汚れておりますけれども、まあ、ちょっとした長女の心遣いというものが、私の、心の中に、やはり何時もとは違ったお風呂に、入らして頂いた有難さというものを、与えてくれます。また、感じることが出来ます。
これは、もう本当にそうなんですけれども、「んー」、それが、どうでしょうか、お互いの、ちょっとその、思いつきというかその様なものが、自分の心が、生き生きとして、( ? )それがなされるときです。一言の言葉、一つの態度、ちょっとした、いわば、親切、ちょっとしたその、心遣いというものが、相手の心にそういうように、浸み込んでいくように、有難いものを、なんか「あー」、味も素っ気もないような、この、潤いの無い心の中に、なにかこう、水を撒いたようなものを、「おー」、与えるようなおかげになり、それが、自分のおかげになる。
今日、お客さんがあるというときに、例えば、お掃除でもして、表に打ち水でもしているのと、「ね」、お客さんがあるのに、お掃除もしていないというのでは、大変な、お客さんに与える感じが違うようなもの。おビールを頂きますでも、おんなじおビールでありましても、冷たく冷やしてあるビール、冷やしてないビール、もう、味わいが違いますでしょう。いただいてから、「ああ、こりゃ生ぬるか」と、こういうものだけしか出ない。「ね」、酔うことにおいては変わらないかも知れないけれどもです、「はあ、美味しい」と、一口飲んで「美味しい」を、叫ばせれるような、心掛けというようなものが必要。
昨夜、遅う、(やつき?)さんたち親子連れで、参って見えた。ああ、今日は、今日はじゃない、最近はもう、お母さんが朝参りをする。晩には、御祈念が済んだころ、いつも、欣也さんがお父さんを乗せてお参りしてくる。「このごろは、おかげを頂いてから一家中がお参りができるね」と、いうて。だから、このお参りがです、本当にもう、「朝のすがすがしさ、昼の忙しさ、夜の有難さ」というのが、この、夜の有難さというのが、今日一日お使い回しを頂いて有難いというその思いが、久留米から椛目までちょっとお参りさせていただかなければおられないということになったら、大変な有難いことだろうねといって、お話したところなんですけれど。「ね」、私共が、どうでしょう、神様へ向かっての、ちょっとした心遣い、「おかげを頂いて有難い」と思うただけじゃなくてちょっと、その有難いと思うしるしが、何かに表現される。「あいすまんことじゃった」「相、済まんの」「相すまん」「相、済まん」お詫びのしるしに、ちょっとした修行が出来る。「今日は、このような、おかげ頂いて」というような思いが、例えば、お参りさして頂かなければ居れんと言う、ちょっとした思いにならされる時にです、それが、私は、一つのアイデアであり、神様にちょっと目を見張らせるようなというか、神様にぐっと、くぐるというか、神様に交流するようなものが、そういう中からいただけると思うんです。ですから問題はそれが、習性のものではなくて、習慣的なものではなくてです、ただ、自分の心の中に、「朝のすがすがしさ、昼の忙しさ、夜の有難さ」といったような、一貫したです、そういうようなものがある。
生き生きした信心がです、そういうことになって現れて来る時、「ね」、人にも通うことは勿論でしょうが、神様にもまた、通うていく。そういう、私は、心掛けというか、心遣いというものが、信心に必要じゃないかと、思うですね。おかげ頂きました。